サイト内キーワード検索


お問い合せ

東洋学術出版社

〒272-0021
 千葉県市川市八幡
 2-16-15-405

販売部

  TEL:047-321-4428
  FAX:047-321-4429

編集部

  TEL:047-335-6780
  FAX:047-300-0565

▼中国最新情報

« 中国最新情報 トップに戻る

中国針灸の西洋進出顛末の真相(2)

関連記事:「中国針灸の西洋進出顛末の真相(1)」


新中国で初めて針灸治療を受けた米国人
李永明

『ニューヨークタイムズ』に記事を書いたのは,同紙の記者でコラムニストのジェイムス・レストン氏(1909~1995)。レストン氏は『ニューヨークタイムズ』の副社長およびワシントン支局の主任を歴任し,率直でユーモアに富んだ文体で,報道の自由を強く主張し,最も影響力があり,最も信頼のおける米国記者として定評がある。彼は報道界で最も権威のあるピュリツァー賞を2度獲得しており,彼の名は当時の米国国民の間で広く知られていた。
 米中の外交文書が公にされたことにより,1971 年のキッシンジャー補佐官の「秘密訪中」は詳細が公開され,今や経典的な外交史となっている。しかし,中国政府がキッシンジャーを中国に招いた同時期に,もう1人国賓級の人物を招いていたことまでは,ほとんどの人が知らない。この人こそがレストン氏であるが,2人は互いに相手の行程を知らず,ほとんど同時に中国の東西両側から,それぞれ中国に足を踏み入れた。彼らの目的は,どちらも北京で中国総理・周恩来と会見することであった。
 米中の「ピンポン外交」が始まって,まだ2カ月も過ぎていなかった1971年6月,レストン氏は中国の駐ロンドン大使館から「通知」を受けた。その通知には,彼に中国のビザを発給してもよいと記されていた。レストン氏は狂喜乱舞し,すぐに彼の妻のビザも申請した。
 レストン夫妻は7月8日に深圳から入境し,当地の中国外交部の金桂華氏に会った。広州に到着すると,中国側のガイドが突然レストン氏に行程が変更になったと告げた。北京に飛ぶはずだった旅客機が飛ばなくなったというのだ。レストン氏は不服に思ったが,中国側に従うほかはなく,広州で2日間人民公社を見学した後,列車に乗り7月12日に北京に到着した。移動中の列車内では「国賓待遇」を受けたものの,レストン夫妻は脳裏に浮かんだ疑惑を拭いきれずにいた。
 レストン氏が北京滞在中,「ニクソン大統領が翌年訪中」というニュースを米中同時に発表すると知ったときは,「独占スクープを獲得したというより,刀で切りつけられたような感覚だった」と後に回想している。敏腕記者であるレストン氏は,すぐに広州で「足止めを食らった」原因を察知し,「世紀のスクープ」を逃したことをひどく残念に思った。レストン氏は大きな精神的打撃を受けながら,突然腹部に刺すような痛みを感じた。後に彼は,その痛みは急性虫垂炎の前兆であったことを知ることになった。またレストン氏は,「医学的な根拠は何もないが,私の急性虫垂炎は,ホワイトハウスのキッシンジャー補佐官と関係があると思っている」と話した。
 史料によると,当時のレストン氏の直感は正しかったことがわかる。キッシンジャー補佐官は,北京に到着する前にホワイトハウスからの密電を受け,レストン氏も北京に向かっていることを知った。キッシンジャー補佐官は周総理に会見する際に,キッシンジャー補佐官が内密に訪中しているという情報が漏れ,大統領の偉業に支障を来さないよう,レストン氏を北京に入れないように特別に要請したという。こうして,空路で北京に向かうはずだったレストン氏の行程は,列車での移動に変更された。
 レストン氏は7月17日に,周恩来総理自らの計らいにより,北京の反帝医院(現・協和医院)に入院した。病院に到着したとき,病院の入り口に掲げられた「帝国主義および一切の反動派は滅亡の末路から逃れられない」という大きなスローガンを見たレストン夫妻は,非常に緊張したという。米国の記者が北京で入院したというニュースがニューヨークに伝えられると,すぐに米国の読者は不安に駆られた。
 病人となったレストン氏は,病院で思いがけないほど手厚い看護を受けた。病院は彼の病状を非常に重視し,11人の専門医が診察を行い,急性虫垂炎と診断された。同日夜には,著名な外科医である呉蔚然医師により,虫垂切除術が施された。手術で使用したのは一般的な麻酔であり,すべてが順調に終了した。
 レストン氏は,手術の翌日に腹脹・腹痛を訴えたが,医師はおそらく麻酔薬の副作用であろうと説明し,彼に針灸治療を受ける意思があるかどうかと尋ねた。レストン氏は,喜んで針灸治療を受けた。1人の若い男性医師がレストン氏の両膝下および肘にそれぞれ3本の針を打ち,その後「安物の葉巻のような物」を使って彼の腹部を燻した。レストン氏は当時,このような方法で腹脹を治療するとは,少々複雑すぎないかと考えたという。しかし,針灸治療を行ってほどなく,彼の腹脹や腹痛の症状は消失し,その後もまったく再発しなかったという。こうして,レストン夫妻は中国の針灸に興味をもった。彼らは針灸師と詳細な内容について話し合っただけでなく,主治医や外科主任などを含む病院内の多くの医師に,針灸に関する取材をしたという。レストン夫人は、詳細な取材記録を作成し,医師たちがレストン氏に体格検査を行っている写真を撮影した。
 入院期間中は,「他に書くべき話題もない」ことや,当時中国新華社が世界に向けて,「毛主席の無産階級革命路線に従い,中国の医療従事者と科学者が針灸麻酔を開発し成功を収めた」(1971年7月18日)と発表したことも手伝って,レストン氏は病床で自らの手術および針灸治療の経験を書き記し,7月25日に『ニューヨークタイムズ』総本部にテレックスを送った。
 優秀な記者であるレストン氏は,自身の記事の「売り」は針灸治療であり,一般的な虫垂切除術ではないことを承知していた。彼は短い記事のなかで,術後に受けた針灸治療法や接触した中国人医師たちについて詳細に描いたが,人名だけは東西混合の「レストン式ピンイン」を用いた。レストン氏の「針灸ストーリー」は全世界に伝わったが,30年以上経った後でも,彼に針灸治療を施した中国人医師の正確な名前を知る人はいなかった。レストン夫妻は退院時になって初めて,彼が入院した病院は中国で最高の病院であり,急性虫垂炎の手術をして10日以上入院したにもかかわらず,費用はたった27.5ドルだということを知った。
 レストン氏は「怪我の功名」で,周総理が自ら病院まで見舞いに来てくれただけでなく,人民大会堂の福建庁で正式に夫妻と会見し,晩餐にまで同席してくれた。周総理は,会見が始まるとすぐにレストン氏の回復状態について尋ね,レストン氏は感謝を述べ,会談記録を発表してもよいかと尋ねた。総理は,発表するのは構わないが,一部分だけをとって論ずることは止めて欲しいと話した。『ニューヨークタイムズ』はその後会見記録を全文発表し,中国の『参考消息』も第1版が刊行された。
 レストン氏は,キッシンジャー補佐官と比べて出鼻をくじかれた形になり,取材を行う前に虫垂炎に罹ってしまったが,この聡明な記者は,記事を発表するチャンスを放棄したわけではなかった。彼は虫垂炎で米国国民と中国官僚の同情を誘っただけでなく,自身の虫垂炎を用いて一種の「訃報」とすることを忘れなかった。つまり,自身の闘病日記によって,西洋社会に対する中国針灸の大々的な「広告」を行ったのだ。
 記事が発表されるとすぐに,米国で思いもしない2つの反響が巻き起こった。その1つは,レストン氏は内部情報を探るために病気を装い中国の病院に入院したのではないかというものであり,もう1つは,様々な持病もつ米国の患者が,レストン氏に針灸治療について尋ねたというものであった。これについてレストン氏は,「この疑惑は,私の想像力や勇気や犠牲的精神を買いかぶり過ぎている。私は,よりよい記事を書くために多くを犠牲にすることもあるが,真夜中に手術を受けたり,自ら実験用のモルモットになったりするほどではない」と反論した。
 しかし,レストン氏が最も思いがけないと感じたのは,第3の反響であった。彼の記事は米国国民の針灸に対する大きな関心を引き起こし,その後もメディアは次々と針灸関連の報道を続け,1つの記事が重大な社会現象を巻き起こす「経典」となったのである。今日でも人々は,レストン氏の記事を「美国針灸熱」の導火線として記憶に留めている。


[中国中医薬報2015.03.11]
翻訳:平出由子


ページトップへ戻る