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通巻171号(Vol.43-No.4)◇【訃報】新中国と歩みを共にし,日本への中医学の普及に情熱をかけた66年

 
訃報

新中国と歩みを共にし,日本への中医学の普及に情熱をかけた66年

東洋学術出版社 代表取締役 井ノ上 匠



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 令和4年9月25日,弊社の創業者である山本勝司会長が病のため永眠いたしました。享年85。
 わが国への中医学の導入・普及に出版人として導き続けたリーダーであり,情熱溢れる編集者でした。
 「もし,山本さんがいなければ,日本に中医学が定着することはなかったでしょう」
「『中医臨床』の発刊と東洋学術出版社の翻訳出版事業がなければ,日本の中医学の普及はありえなかった」
 訃報をお知らせした先生方からいただいた言葉です。このことは,私自身よく理解していたつもりでしたが,改めて山本会長が残した功績の大きさを痛感しています。
 山本会長は新中国成立の1949年からわずか7年後の1956年に大阪外国語大学中国語科に入学し,以来一貫して中国と付き合いながら歩んでこられました。文革を含む1964~68年の4年間,中国北京に滞在し,1980年には東洋学術出版社を立ち上げ,中医学の普及にかけた情熱は志を同じくする先生方と共鳴し合い,日本における中医学の発展,そして定着へとつながりました。新中国と歩みを共にし,わが国への中医学の普及に生涯を捧げた人生でした。
 当社の歴史は日本への中医学導入の歴史そのものでもありました。そこで今回,生前に山本会長からうかがった話をもとに当社の歴史,特に創設期に焦点を当てて振り返り,山本会長が残した足跡の一端をみなさまにお伝えしたいと思います。


中国とのかかわり憧れの北京へ
 
 学生時代に中国語を学び,学生運動や日中友好運動に身を投じていた山本会長にとって中国は憧れの革命の聖地でした。1964年,27歳のときに国際書店(当時勤務していた極東書店のカウンターパートで中国が扱う全書籍の輸入業務を担っていた)への交換社員という名目で北京へ派遣される機会を得,文革を含む4年間,北京に身を置きました。
 北京で配属されたのは本や雑誌など出版物を通じて対外広報活動を担う中国外文出版局(外文局)でした。外文局には日本語版の編集スタッフとして複数の日本人が配属されており,山本会長もその中のひとりでした。このとき,長編小説『欧陽海の歌』(金敬邁著),『毛主席語録』『毛沢東選集』をはじめ,その他さまざまな民話や書籍などの改稿や翻訳を担当していました。
 1966年から文革が始まり,中国人の総経理が三角帽をかぶせられつるし上げられる様を目の当たりにしたり,尊敬する中国人の同僚がビルの屋上から突き落とされ殺害されるといった事件が発生するなど,文革が巻き起こす事態の重大さを思い知らされながらも,全般的には北京にいた日本人専門家は普段と変わりなく仕事を遂行していたといいます。
 1968年に帰国し,10年間,東方書店で勤務した後,1980年に独立して東洋学術出版社を設立しました。千葉県市川市の住宅街にある自宅の一室で,夫婦二人で,ちゃぶ台と電話1台からの船出でした。医学については素人,伝統医学の知識も持ち合わせないまま中医学の世界に飛び込んだといいます。42歳のときでした。


会社創設時の社会的背景
 
 1972年の針麻酔報道以来,日本の鍼灸界は大きな変化の時代を迎えていました。当時,山本会長が勤めていた東方書店の店頭には,大勢の鍼灸学校の学生が押しかけ,原書を抱えて座り込み熱心に読み耽っていたといいます。店内では社員が通る通路もないくらいにぎっしりと詰めかけていました。鍼灸院も活性化し,街中に「中国ばり」の看板が見られるようにもなりました。さらに医学界でも,麻酔科や生理学分野で鍼が高い関心を集めていました。
 また公害,薬害,3分診療,疾病構造の変化への対応の遅れなどで,既存の西洋医学への不信感が高まり,自然回帰を求めて東洋医学・東洋思想・天然薬物への志向が強まっていました。1976年には漢方エキス剤が保険収載され,それまで薬剤師によって命脈を保っていた漢方を医師らも使えるようになり,医師の間で東洋医学への期待が高まり始めました。
 学生運動の火柱が立ちのぼり,特に医学部学生の運動は西洋医学の偏向性に批判の矛先が向けられ,医局解体が叫ばれるようになったのもこの頃です。こうした学生運動や反体制運動とかかわりのあった人たちの中から中医学を柱とした医療活動へと進む人たちもでてきました。また文革中の毛沢東思想学習運動も日本の学生運動に影響を与え,一部では中国への親近感が高まっていました。日中友好運動の熱気が高まり,中国に強い憧れを抱く若者も少なくありませんでした。
 一方,中国でも1976年に文革が終了して,中医界に大きな変化が生まれていました。文革中,中西医結合が世界の「第三の医学」と評され脚光を浴びる一方で,中医学は「破四旧」(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)のスローガンのもとさまざまな改造を迫られました。老中医は「牛鬼邪神」(妖怪変化)と見なされ迫害を受け,「一根針一把草」「赤脚医生」の大衆運動が展開されて中医学の簡略化が進み,ハイレベルの人材育成や研究は停滞を余儀なくされました。
 文革が終結すると老中医は復権し,大学教育は正常化して,中医界が一丸となって中医学の復興をめざして動き始めました。『中医雑誌』『新中医』『上海中医薬雑誌』などの雑誌も復刊し始め,こうした中医界をめぐる大きな変革の時期に当社は創業されました。


『中医臨床』創刊
 
 山本会長が生み,わが子のように大切に育ててきたのが『中医臨床』(1980年6月創刊)です。中国医学の翻訳・情報提供がおもな任務です。当時,中医学のことを「中国漢方」と翻訳されていましたが,鍼もあるわけで漢方だけでは範囲が狭いと考え「中医学」という名称をそのまま使うことにしたそうです。後に神戸中医学研究会の森雄材先生は,「中医」という名称をよく使ってくれたと褒めてくれたといいます。
 医学系雑誌では専門家の先生に編集長をお願いするのが一般的です。しかし山本会長はあえてそのやり方をとりませんでした。「中国の文献は自分が読まないと誰も読んでくれない。自分が文献を選別するほかなく,裁量権を自分が持たざるをえなかった」「大勢の先生たちから教わりながら,それを当社が形にしていく。多くの知恵と助言をもらって編集する」。『中医臨床』は,専門家ではないいわば素人が編集長をつとめ,多くの先生方の知恵を集めて形にしてゆくというスタイルで制作されることになり,この方針は現在も変わっていません。
 『中医臨床』は多くの方々の支援を受けて育まれてきました。現在も連載を続けてくださっている浅川要先生には『中医臨床』創刊前から多大なお力添えをいただいてきました。山本会長が『中医臨床』発刊の相談に伺ったとき,即座に協力しましょうと約束してくださり,鍼灸分野の企画と翻訳をしていただいたと聞いています。現在も当社が弁証論治を柱にすえているのは,このとき「弁証論治を旗印にするならば協力は惜しまない」と約束してくださった浅川先生の支援があったからでした。
 また最初から積極的に『中医臨床』の発刊を支持してくださった一人として,医道の日本社の戸部雄一郎氏がいました。戸部氏から小川卓良先生を紹介していただき,小川先生から猪越恭也先生を紹介していただいて,そこから『中医臨床』は動き始めました。
 また後藤修司先生も小川先生の推薦で紹介していただき,すぐに山本会長,後藤先生,小川先生の3人で中国を訪問し,そこから大きな歴史の変化が生まれました。当時,日本には「中国から学ぶものなし」という風潮があり,中国に冷めた目をもつ人たちがおり,中国との交流から手を引く動きも出始めていたといいます。中国の鍼は「太くて長い,強刺激の鍼」で日本には適合しない,中国は非衛生的で設備が悪いといったことが理由でした。後藤先生はそうしたネガティブな面にはあまり目を向けず,違った世界との交流の重要性を意識されていたそうです。後藤先生は北京中医薬大学の高鶴亭学長と会見するとすぐに意気投合して,ただちに日中青年針灸師の交流会(1982年7月)の開催が決まり,次の訪問のときには北京中医薬大学と後藤学園との提携関係が締結されました。このとき,北京中医薬学院に留学中だった兵頭明先生と後藤先生との出会いがあり,その縁がその後の日本の中医教育の発展へとつながっていきます。
 創刊号では猪越恭也先生との出会いもありました。創刊当時,中医学に関する翻訳書は数冊出始めていましたが,雑誌文献の翻訳はなく,針麻酔情報など中国医学の雑誌情報を翻訳提供してはどうかと聞いて回ったら,思いがけなく反応がよく,絶対に成功すると,多くの人が太鼓判を押してくれたといいます。しかし雑誌創刊時は,すでに中国では針麻酔は下火となっていました。代わって注目を集めていたのが「冠心Ⅱ号方」の情報でした。そこで関連文献を全部集めて猪越恭也先生に見てもらったところ,猪越先生はその内容に衝撃を受け自ら翻訳を申し出られ,それが創刊号の特集「虚血性心疾患」の「冠心Ⅱ号方」の解説と関連文献として掲載されました。


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『中医臨床』創刊号



傷寒論がつなぐ日中の学術交流
 
 創刊号が出た後,当時,日本漢方協会の若手幹部であった根本幸夫先生から連絡をいただき,根本先生のアドバイスから日本漢方の先生方との接点が生まれました。日本漢方協会を紹介していただき,山本会長は毎回の勉強会に参加させてもらい,藤平健先生,伊藤清夫先生,小倉重成先生,勝田正泰先生や薬系の先生方と接触するようになりました。特に藤平先生は同じ千葉県ということでよく食事会に呼んでくださり,幹部の先生方や若手の先生方と親しくさせていただき,ご自宅へも何度もうかがったそうです。
 根本先生からは「日本漢方は傷寒論を柱としている。日中の漢方交流をするなら必ず傷寒論を取り上げるべきだ」と教えられたといいます。ちょうどタイミングよく中国の傷寒論研究者の代表者が来日しており,さっそく劉渡舟先生,顔正華先生と藤平健先生や小倉重成先生との座談会を開催し,それは『中医臨床』2号に掲載されました。続く『中医臨床』3号では任応秋先生へのインタビューで中国の傷寒論研究の歴史を語ってもらい,これがやがて「日中傷寒論シンポジウム」へとつながってゆきました。
 1981年10月,北京で初めて日中傷寒論学術討論会が開催されました。日本側は日本漢方医学研究所と医師東洋医学研究会の共同主催で,藤平健先生を団長に,山田光胤先生,小倉重成先生,松田邦夫先生,勝田正泰先生らを演者とする総勢43名,日本東洋医学会の中心メンバーが揃って出かけ日本の論点を披露しました。中国側の主催は中国衛生部と中華全国中医学会で,任応秋先生,劉渡舟先生,王綿之先生,金寿山先生,何任先生らを中心とする総勢500名が参加し,大規模なシンポジウムとなりました。発表された講演は日中双方で53題,両国の傷寒論研究の総力をあげた結晶が発表されました。そのすべては『中医臨床』臨時増刊号「日中傷寒論シンポジウム記念論集」(1982年5月発行)に収録されています。
 翌1982年10月には,張仲景の故郷・河南省南陽で2回目のシンポジウム「日中仲景学説シンポジウム」が開催されました。日本側は矢数道明先生を団長とする日本東洋医学会代表13名と医師東洋医学会7名の合計20名,中国側は300名が参加し,日本側10編,中国側34編の論文が発表されました。中国側は中国衛生部の呂炳奎先生と中華中医学会の任応秋先生が主宰しました。中国側もこのシンポジウムには大きな期待を抱いていたようで,開催にあたり任応秋先生が「独り学びて友なくば,固陋(ころう)にして寡聞」と揮毫されたといいます。これについて山本会長は,中国ではその年の4月に湖南省で「衡陽会議」(中医・西医・中西医結合の3つの勢力がそれぞれ平等に併存することが申し合わされた会議で,これによって中医が独立して活動できるようになった画期的な会議)が開催され,復権を果たした中医界が再スタートを切るタイミングと一致しており,この題辞には日本と共同で伝統医学の発展をはかりたいという切実な願望が込められていて,中国側の取り組みには強い意気込みが感じられたと語っています。


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兵頭明先生と談笑する山本会長(1985年頃撮影)



40年を振り返って
 
 創刊40年を振り返り山本会長は次のように語っていました。
 「『中医臨床』創刊の初期は,鍼灸関係の文献を紹介することをテーマにしていたが,その後,根本先生のご紹介で日本漢方の土壌が傷寒論であることを知り,そして「冠心Ⅱ号方」や靳士英先生の文献などから,関心が大きく湯液に傾斜することになった。鍼と中医をいつも同時並行的に導入し,相互に補い影響を与えながら増幅してきた」
 「鍼と湯液を,自在に重点を変えた。それがよかった部分もある。相互補完的に話題性を高めることができた。鍼が低調なときに湯液が表に出て,湯液がダウンしたときは鍼が元気よく誌面を賑わした。これは,中医と鍼灸が同じ基礎理論のうえに成り立っている中医学であったからこそ可能となった。しかし,鍼灸の世界の先生方からすれば,『中医臨床』は湯液の雑誌だと思い,湯液の先生方は鍼灸の雑誌だと考える人たちもいた」
 このように,鍼灸と湯液を共に共通のテリトリーとした『中医臨床』だからこそできたことを強調する一方で,ジレンマを抱えていたことも吐露していました。
 そして,40年を次のように総括しています。
 「劇的なドラマを目の当たりに見てきた。歴史的にこれしかない絶好のチャンスをもらい,この事業に参加でき,幸運であった。いかに恵まれていたか,いかに多くの人びとに助けられてきたか。ご恩返しはしないといけない」
 「激動の歴史を当社はその中核とかかわりながら,いつもそばで観察できた。なぜ当社は40年も持続発展できたのか。40年も続き得た特異的な出版社で,ある意味,当社は自分で社会需要を汲み取り,自ら市場を作ってきたともいえる。もちろんそれは多くの支援者の力が結集したからこそ実現できた」
 「さまざまな幸運が重なり,うまくかみ合って成功を収めた。意義ある仕事ができた」と。


後を継ぐものとして
 
 私は,2009年に,創業者である山本会長の後を継いで,社長に就任しました。以来,13年になりますが,山本会長には,社長を退かれた後も会長として助言をいただきながら,中国の中医学の動向や,日本の中医学の未来について意見交換をしてきました。山本会長と,日中の中医学の情勢を語り合っている時間は,本当に楽しく充実したひとときでした。何よりいつも積極的で前向きな話題で盛り上がれるのが心地よくもありました。
 ここ数年は,コロナ禍ということもあり,あまり会社に顔を出されることはありませんでしたが,再び語り合う機会が失われたことが,残念でなりません。
 私は学生時代に中国史を学び,卒業後には中国成都に留学し,帰国後は西洋医学系の出版社で編集者として勤めてきました。かねてよりこれまで学んできた中国史と,身に付けた医学書の編集スキルを結びつけるような仕事をしたいと考えていましたが,中国の歴史の積み重ねにより構築されてきた伝統医学と,実臨床というリアル世界が融合した中医学はまさにそれを実現できるものでした。幸運なことに偶然に東洋学術出版社のホームページで人員補充のための求人が出ていることに気づき,すぐに面接希望の電話を入れました。山本会長と対面した面接ではもう何を話したかはっきりと覚えていませんが,山本会長の穏やかな眼差しを受けながら楽しく会話し手応えを感じた記憶はしっかりと残っています。
 前職でひととおりの雑誌・本づくりはこなしていたので,実務に不安はありませんでしたが,中医学の知識はありませんでしたから,毎日の編集業務を通して,また本を読んで少しずつ学んでいきました。そんな折,山本会長から後藤修司先生にお願いして東京衛生学園へ兵頭明先生の講義を聴講しにいく機会をつくっていただきました。日常業務を終えたあと,兵頭先生の夜間の講義を2コマ受講するため,半年ほど通わせていただきました。
 また入社した年の年末から毎年,山本会長,兵頭先生と私の3人で,都内か千葉の居酒屋で,酒を酌み交わしながら「作戦会議」と称して日本の中医学の発展のためのプロジェクトを語り合うのが恒例となっていました。わが国に中医学を導入し定着させた立役者でもあった両巨頭とざっくばらんに本音をぶつけ合える会合は,私にとって雑誌の編集方針や出版活動の指針を得る貴重な機会となっていました。コロナ禍で3年前に集ったのが最後になってしまったのが本当に悔やまれます。
 山本会長が社長を退任された後は,後任である私がやりやすいように,助言を求められれば応えるというスタンスで温かく見守ってくださいました。情熱に溢れ,常に将来の発展を見すえながら行動し,長年にわたって社会需要を汲み取って自ら市場を作ってこられた山本会長の目からみれば,きっともどかしく感じていたことも少なくなかったでしょう。その期待に充分応えられていたかといわれると甚だ心許なく,力不足なのは否めません。しかし山本会長のように最期に「意義ある仕事ができた」と言えるよう,山本会長の遺志を継ぎ,ご縁を大切にして先生方のお力添えをいただきながら,日本における中医学の発展に力を尽くしたいと思います。入社してから19年間,本当にありがとうございました。これからも日本と中国の中医学の発展を見守り続けてください。


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年末恒例の「作戦会議」にて(2004年12月28日撮影)



※『中医臨床』創刊当時の状況については,2018年7月10日に当社内で社員向けに行った講演会「日本における中医学導入と当社の歴史」のほか,井ノ上が山本会長から直接うかがった話をもとにしました。




【略歴】
山本勝司(やまもと・かつじ)
 東洋学術出版社 創業者 日本中医薬学会 顧問
1936年 大阪生まれ
1945年 空襲に遭い奈良に疎開,翌46年に京都へ移住
1956年 大阪外国語大学中国語科入学
1960~61年 卒後,貿易商社を経て,極東書店に入社
1964~68年 北京に派遣され中国外文出版局で勤務
1968~79年 帰国後,東方書店に勤務
1980年 千葉県市川市に東洋学術出版社を設立(法人登記は1983年10月),『中医臨床』創刊
 『黄帝内経』『傷寒論』『金匱要略』『難経』など中医経典の翻訳書のほか,弁証論治を基軸に中医学の教科書,参考書,辞典,臨床各論の書籍を出版。
 特に1991年より刊行した『針灸学』シリーズは日本に中医針灸を定着させることにつながった。
1998年 『伝統医学』創刊(2010年より『漢方と診療』に改題,2019年休刊)
2009年 東洋学術出版社社長を退任,会長に就任
2010年 日本中医学会(現・日本中医薬学会)顧問就任




(2022年12月)





中医臨床 通巻171号(Vol.43-No.4)特集/コモンディジーズの中医治療 ―発汗障害―


『中医臨床』通巻171号(Vol.43-No.4)より転載



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