訃報
中医鍼灸学の礎を築いた上海の李鼎先生が逝去
中医鍼灸学の基礎を築いた上海の李鼎(りてい)先生が,2022年3月25日,病のため逝去されました。享年93。
編集子にとっては,いまから8年前の2014年4月,上海を取材で訪れインタビューさせていただいたときのことが思い出されます(取材記事は
『中医臨床』137号に掲載)。当時,李鼎先生は病のため竜華医院に入院療養中でしたが,お元気なご様子で,病棟の談話室にて予定の時間を大幅に超える3時間,外が暗くなるまでたっぷりとお話ししてくださいました。
現代中医学のエッセンスは統一教材に凝縮されていますが,鍼灸分野においてそのモデルになった教材が,1957年に現代中医学揺籃の地・南京で出版されました。一方,上海では1960年に中国で最初の鍼灸学部が創設され,そこで使用される教材がまとめられていきました。南京と上海,現代の中医鍼灸学の形成に多大な影響を及ぼした両校は,歴史的な交流を果たし,その教材を充実させていきました。
李鼎先生はこの南京と上海との交流に立ち会い,その後も中医鍼灸学の確立に深くかかわってこられました。特に鍼灸の文献研究で知られ,現在もなお評価の高い第5版統一教材『経絡学』も主編されました。8年前の取材では中医鍼灸学の形成にかかわった当事者の一人でもある李鼎先生に,鍼灸教材の変遷と弁証論治の鍼についてお話をうかがいましたが,その時に受けたインスピレーションは,その後,編集子が「鍼灸における弁証論治体系の歴史」を調査・研究するうえで大きな糧となってくれています。
李鼎先生は1929年生まれ,浙江省永康県のご出身です。日中戦争後に上海に出て劉民叔先生に師事し中医学を学ばれました。劉先生の師は章太炎とともに国学大師と呼ばれた著名な経学家の廖李平で,その影響を受け,李鼎先生は考証学の考え方を身に付けることができ,その経験がその後の鍼灸への取り組みの基礎になったといいます。1952年に上海市の医学研修班に入り(中医が西洋医学を学ぶ),そこで解剖学や生理学など西洋医学の知識を学ばれました。そして1954年から上海市衛生局中医門診所(のちに第五門診部に改称)で勤めるようになりました。1956年,創設された上海中医学院に配属され,教育の準備作業にあたり,基礎課と鍼灸学の教師を務め,のちに附属第五門診部と竜華医院鍼灸科医師,中医研究所文献理論研究室副主任を兼任。その後,鍼灸教研室主任・鍼灸文献研究室主任等を務められました。
李鼎先生はインタビューのなかで「私のポリシーは誰も手をつけないような分野に取り組むことです。鍼灸,特に古いものには空白となっているものがたくさんありました。私には文献学などの基礎があったので,人に頼らなくても自ら研究できる有利な面もありました」と語っておられますが,上海に創設された鍼灸学部の教育を担ったというだけでなく,鍼灸文献・中医基礎理論・中国伝統文化の面を深く掘り下げ,多大な貢献を果たされました。ご冥福をお祈り致します。(井ノ上匠)
(2022年6月)
『中医臨床』通巻169号(Vol.43-No.2)より転載