追悼
中医学の魂を体現した老中医 鄧鉄涛先生
編集部
広州の鄧鉄涛先生が,2019年1月10日朝,病のため逝去されました。104歳でした。
編集子にとっては,いまから15年前の2004年10月,本誌読者の先生方と広州研修旅行をご一緒させていただいた折,鄧先生にお目に掛かったときのことが思い出されます。広州は鄧先生の思想が貫徹され,鄧先生を頂点として確たる自信をもって中医学の臨床が実践されている場所として知られており,この研修旅行は日本の先生方にさらに中医学の臨床に自信と確信を掴んでいただきたいとの思いから,当社で企画したものでした。
この研修旅行のハイライトは鄧先生との対話でしたが,広州に着いてすぐ,鄧先生は過労で入院中との一報が入り,参加者一同天を仰ぎました。当時すでに88歳と高齢で,国際学会に向けての過労が影響したようでした。ところが,日程の最終日になって体調がだいぶ回復したとのことで,お見舞いの形で入院中の病室で面会することが叶いました。
病室に着くと,鄧先生はパジャマ姿のまま,われわれ一人ひとりとしっかりと握手して出迎えてくださいました。小柄で,穏やかな笑みをたたえるその姿から,「中医学の塊を体現した老中医」と称えられるパワーを秘めていることが容易には想像できませんでしたが,身に纏う雰囲気はやはり特別なものがありました。中医学への信頼と誇りをみなぎらせ,身振り手振りを交えながら情熱的に話された姿がいまも脳裏に焼き付いています。面会は30分ほどと短いものでしたが,この研修旅行の成功を確信した貴重な時間でした。
鄧鉄涛先生は,1916年,広東省の開平市でお生まれになりました。広州中医薬大学終身教授で,第1回目(2008年)の「国医大師」に選出されています。
鄧先生は,優れた中医学の臨床家・教育家であっただけでなく,中国において中医学全体の発展に多大な貢献を果たしてこられた方で,中医薬事業の発展の節目で幾度も重大な献策を行ってこられました。まさに中国中医界の「魂」であり,精神的支柱でありました。
たとえば,鄧先生は国家中医薬管理局設立の舞台裏でそれを後押しする建白書を提出しています。1984年,鄧先生は当時の中央軍事委員会副主席の徐向前元帥に宛てて建白書を送りました。10年に及ぶ文革が終結し,閑職に追いやられていた老中医たちが臨床や教育の現場に復帰して伝統医学の復興に心血を注いだ,そんな時期です。建白書には「伝統医学を発展させることはすでに憲法に明記されているにもかかわらず,われわれは(文革で)あまりに多くの時間を失った。思い切った手を打って早く復興させなければならない」と記されていました。徐元帥はかつて鄧先生の処方を服用して効果を実感した経験があり,そのため伝統医学に対し好感をもっており,その建白書に「鄧老の書簡は,重視する価値があるだろう。これは新しい問題ではないが,いまだ解決できていない」という自身の意見を付けて当時の総書記・胡耀邦に送りました。それを受けた胡耀邦は「中医の問題に真摯に取り組むよう」指示を出し,すぐさま政治局へ伝達され,すでに出されていた「中医薬管理局設立の報告」を後押しする形となって国務院の会議に諮られ,中医薬管理局が設立されました。
また,1990年,中央政府が制度改革を実施したとき,中医薬管理局が廃止されると聞いた鄧先生は,ただちに全国各地の老中医の先頭に立って政府に宛てて建白書を提出しています。これは,中医界でよく知られている「八老上書」と呼ばれる建白書で,八老とは,鄧鉄涛・方薬中・何任・路志正・焦樹徳・張琪・歩玉如・任継学の8人の老中医のことで,この8人の連名で当時の総書記・江沢民に宛てて起草されました。彼らは,国家中医薬管理局を廃止したり,その権限と経費を削減したりすべきではないと述べ,さらに各省に中医薬管理局を設立することを建議しました。そしてその1カ月後,建白書は認められ,国家中医薬管理局は維持されることになりました。
さらに1998年,当時は「西医重視,中医軽視」の傾向が強く,西洋医学が中医学を呑み込む風潮がありました。たとえば,中医薬大学が西洋医学の大学に吸収される,中医が西洋医学の病院の一診療科になる,大学教育では西洋医学を重視し中医学を軽視するなどの動きです。このとき,鄧先生が中医発展の歴史や現状,さらに諸問題に対する解決策をしたためた草稿を書き上げ,それに賛同した老中医の任継学・張琪・路志正・焦樹徳・巫君玉・顔徳馨・裘沛然らとの連名で,当時の首相・朱鎔基宛てに建白書として提出されました。それを受けて,国の教育・衛生部門は中医学を重視するようになりました。
中医学を世界医学として拡大し,さらに中国文化を代表する一つと位置付け発信している現在の中国の動向を見ていると,これらの建白書の先見性がより際立ちます。
2003年にSARSが流行した際にも,鄧先生は建白書を提出しています。それを受けた当時の首相・呉儀は,中医座談会を開催し,そこでSARSに対し中医が予防治療できる方法であることが確認され,その座談会の後,ただちに中医がSARS制圧に投入されました。SARSに対する取り組みが,その後の中国における中医学発展のターニングポイントになっており,やはりその節目にも鄧先生の姿がありました。
現在,中国では,優秀な若い中医師を経験豊かな老中医に就かせて学ばせる,大学教育と伝統的徒弟教育を融合した教育システムを採っていますが,それは,広東省中医院で鄧先生が提唱して実施されたやり方がモデルになっているといわれています。
中医学の魂を体現した老中医がまたお一人,鬼籍に入られました。しかしその精神と経験は,伝統的徒弟教育を通じてきっと若い中医師らに継承されていると確信しています。ご冥福をお祈り致します。(井ノ上匠)
【略歴】
1916年,広東省開平生まれ。1937年,広東中医薬専門学校を卒業。広州中医薬大学終身教授・博士生指導教官。第1回国医大師。現在も評価の高い統一教材・第5版の『中医診断学』の主編を始め,主編した教材や著書,発表論文は多数。臨床では心血管病の治療を得意とし,さらに脾胃学説の運用に長け,重症筋無力症・萎縮性胃炎・肝炎・肝硬変・再生不良性貧血・硬皮症・リウマチ性心臓病・全身性エリテマトーデスなど難治性疾患の治療で豊富な臨床経験をもつ。広東だけでなく中国全体の中医薬事業の発展に重大な貢献を果たした。
(2019年3月)
『中医臨床』通巻156号(Vol.40-No.1)