はじめに
私は医学の道を50年以上も歩んできました。大学を卒業してから、医師、医学雑誌の編集者、漢方相談、講師など、中医学に関係するさまざまな仕事に携わり、20年前に中医学・薬膳学の教育に辿りつきました。
中国での医師時代は毎日患者さんを診て、「体調はどうですか」「よくなりました」「あまり変わらない」などという会話ばかりしていました。その頃に治った患者さんの喜ぶ姿を見て、自分が他人の役に立ったことをうれしく思い、医者として「救死扶傷」の使命を達成したことに誇りを持ちました。しかし、その一方では、多くの患者さんは慢性病や加齢により各臓腑の機能が低下し、さまざまな病気が現れます。また、生活習慣病などは、症状がひどくなるにしても緩和するにしても、なかなか病院から離れることができません。そういうなかで、医者の仕事は責任が重く感じられ、あまり楽しいとは思えませんでした。
日本に来て30年以上になり、その間、病院で患者さんの漢方相談に乗っていた時期があります。そのときに、一番多く受けた質問は、「私の病気には何を食べたらいいですか?」というものです。食事のことはみんな気にしているのだと思いました。
20年前には、本草薬膳学院を創立しましたが、ある学生に入学の理由を尋ねた時、「残りの人生の41000回余りの食事をもっと自分の体に合うものにしたいから中医薬膳学を選びました」という答えが返ってきました。それを聞いたときに、とても感心し、わが身を振り返りました。私自身、毎日三食を食べていますが、自分の一生であと何回食事をするかということはまったく考えたこともなかったのです。すぐに残りの食事の回数を計算してみて、一食一食を大事にしなければいけないと、あらためて思いました。
「民以食為天」(民衆は食をもって天となす)、「安身之本、必資于食」(安穏で健康的な人生の根本は食にある)というように、昔から「食」は個人の命や国の安定に最も関わっている事柄とされています。
本草薬膳学院では、創立当初から、中医学にもとづく薬膳学の知識を食生活に取り入れて健康長寿を目指すこと、食から中医学の世界に入ることを教育目標としてきました。学院独自の教科書を作成したり、専門書を上梓したり、私自身もその都度学びを重ねてきました。さまざまな本をよく読み、新しい薬膳メニューや薬膳茶を考案しています。教壇に立って講義をするときには、そういう勉強の楽しさを学生に伝えるようにしています。みんなが自分の夢に向かって、目標を実現するために頑張っている姿を見ると、とても幸せな気持ちになり、薬膳を教える仕事を続けてきて本当によかったと思います。
このたび、本草薬膳学院創立20周年の記念として本書を出版することになりました。この本の内容は、2004年から2011年まで、雑誌『伝統医学』と『漢方と診療』(株式会社臨床情報センター)に連載した「医在厨房」が元になっています。連載時には誌面の関係で書き切れなかったことを大幅に加筆しました。食と医学に関心のある方には、より役立てていただける内容になったと思います。
何千年もの時の流れの中で、食が発展し、医学も進歩してきました。この本を読んだ皆様がそういう世界に触れて、ご自分の食生活を見直したり、楽しんだりしてくだされば幸いです。
最後に、書籍化を快諾してくださった東洋学術出版社の井ノ上匠社長や、編集・制作をしてくださった同社の方々に御礼を申し上げます。
二〇二二年七月吉日
辰巳 洋