まえがき
中医学の知識と臨床の間には大きな谷間があります。基礎理論,診断学,中薬学,方剤学などの教科書で知識を習得しても,この谷間を越えない限り実臨床でなかなか患者を治せません。中国では中医薬大学を卒業後に中医師としての臨床研修を受ける場があり,上級医が谷の向こう側まで導いてくれます。残念ながら日本にはそのような場は数えるほどしかありません。苦労して一人で谷を越えなければならないのが中医学を志す日本の医師の実情です。谷を半分渡って引き返す人も少なくないことでしょう。
知識と臨床の谷間は中医学に限ったことではありません。6年間医学部で学び身につけたたくさんの医学知識を持っていざ臨床の現場に出たとき,誰しもこの谷間の大きさを痛感するのです。筆者の学生時代,自治医科大学の第5,6学年時に各科の病棟実習と並行して臨床講義という授業がありました。臨床講義とはそれまでに学習した医学知識と臨床現場の橋渡しを目的としています。担当学生が入院患者を診察し病歴と所見をプリントにまとめてプレゼンテーションします。それをもとに聴講学生が診断と治療を考え,最後に担当教官が症例解説と小講義を行うというものでした。このような臨床講義を受けてきても,研修医として医療現場に出たときに感じた知識と臨床の谷間は非常に大きく感じられたものです。しかしそれでも,あの学生時代の臨床講義はこの谷を渡る一助にはなったと思い返します。谷に架ける橋とは思考のプロセスではないかと思います。これは教科書に書かれていません。中医学の教科書を一通り学んだ後は,医案という古今の症例集を学ぶことを勧められますが,大多数の医案には十分な思考のプロセスが書かれていません。著者の思考過程を読者が追体験できないため臨床現場でなかなか活用できないのです。
本書は中医学版臨床講義です。本書の目的は思考のプロセスを示して谷を越える一助となることです。症例とその解説では弁証の根拠,処方の解説とくに中薬学の観点からの生薬の選択といった理法方薬のプロセスに配慮し,読者が頭の中で筆者の弁証論治の思考過程を追体験できるようにしました。症例提示部では弁証にとってとくに重要な四診情報にアンダーラインを引きました。また解説文中の重要用語は太字で示しました。日本では取り上げられることの比較的少ない温病や虚火の症例は意識的に収載しました。一方で生薬や煎薬を用いた処方に馴染みの無い読者を念頭に,一部に医療用エキス製剤で治療した症例も加えました。過去に雑誌『中医臨床』(東洋学術出版社)や例年京都の高雄病院で開催されてきた京都漢方学術シンポジウムで発表した症例も含まれています。
各症例に関連した重要事項は〈重点小括〉にまとめました。基礎理論,診断学,中薬学など内容はさまざまですが,一般的な成書では解説されていないけれども臨床的に重要な,あるいは読者が中医診療を俯瞰して広く応用できるようなテーマを主体にしました。〈小講義〉では四診のうち最も修得が困難な脈診を中心にいくつか要点をまとめました。本書では中医学の専門用語を使用していますが古臭い言い回しはできるだけ避けて,現代人とくに現代の若手医師にも理解しやすい平易な表現を心がけました。たとえば〈小講義3 脈象の今風解説〉のように筆者独自のレトリックも多用しました。学術的表現とはずいぶんかけ離れていますが,読者の理解のし易さを第一にしました。繰り返し読むことで理解が定着し易いように,同じ内容を繰り返し記述した部分もあります。陰陽五行など抽象論として軽視されがちな基礎理論はあえて詳しく書きました。医学の東西を問わず,臨床医学と基礎医学を往来しながら学習することは,臨床を深く理解することにつながると信じるからです。
本書は系統的な知識を身につけることが目的ではありません。知識については既に日本語で出版されている良書で学んで頂ければと思います。本書は中医学の初学者にはハードルが高いかもしれませんが,パラパラと症例と解説の部分だけでも読んで頂ければ,医師の頭の中で弁証論治がどのように進行していくのかがイメージできるかと思います。その上で基礎理論,診断学,中薬学,方剤学などの教科書をご覧になれば,そこに書かれた内容を臨床の生きた知識として学習できるのではないかと思います。最後に中医学の用語,中薬学,経絡経穴の辞典類を各一冊は持っておくことをお勧めします。
令和三年一月 京都にて
篠原 明徳