緒 言
漢方医学は,紀元5世紀に大陸から導入されて以降,1500年余りにわたって日本人の健康を支え続けてきた。明治維新後,新政府の政策を受けて正統医学の地位を失ったとはいえ,明治末期から昭和初期にかけての復興運動によって伝統の復活の試みがなされ,今日の隆盛を見るにいたっている。
この動きはたんに日本に留まらない。中国伝統医学は,アメリカ合衆国を始めとする諸外国でもCAM(補完代替医療)の一つとして急に注目を浴びるようになったし,いまでは世界中で盛んに実践され,研究されている。ただそれらは中国の中医学であり,日本の漢方医学ではない。
漢方医学は,古代中国にその端を発する中国伝統医学の日本における一発展型であるが,国際的に見た場合,その理論は孤立して存在し,また18世紀以前のこの医学の形とも異なっていて,現在標準とされている漢方医学の知識を身に付けただけでは,中国伝統医学本来の形や国際的な立場におけるこの医学の位置付けを理解できない。
わが国では,1976年以来,医療用漢方製剤の普及により漢方薬が一般の西洋薬と同じように取り扱われるようになり,この医学が世界の中でどのような位置を占めているかということとは無関係に,多くの医療機関で使用されている。これからは,ここで培われた経験と実績をもとに,国際標準である中医学の弁証論治システムと,日本固有の漢方医学の方証相対システムの双方を理解できる新たなシステム作りが必要となるであろう。
筆者は,そのような時代の到来を予測し,日本の漢方医学を世界に飛躍させるために必要な知識を,今後の日本の漢方医学を担っていくであろう若い医学生諸君に身に付けてもらいたいという強い願望をもって,本書を作成した。作成に当たっては,全体的な構成を国際標準である中医学に置き,日本の漢方医学のもっている優れた部分を適宜その中に組み込み,最終的には臨床において必要な中医学と漢方医学の最低限の知識が得られるように工夫した。もとより,中国では5年もしくは7年の歳月をかけて大学で習得する内容を,この小冊子1冊で伝えうるものではないが,現在出版されている諸種の漢方関係の書物を読むだけの基礎知識は十分身に付くはずである。
実際,このテキストを用いて行っている「医学生のための漢方医学セミナー」では,約1週間の日程の最後にワークショップの時間を設け,参加した学生さんたちに症例を提示し,診断から治療まで弁証論治システムを用いてシミュレーションしてもらっているが,全員ほぼ正解に近いところまで答えられるようになる。本書の知識があれば,卒業してからどのような形で漢方医学を実践することになっても,この知識を利用して自分で自分の道を切り開いていくことができるであろう。
かつて日本では,医家の家庭においては,幼少期より医学の学習を始め,20歳代半ばを過ぎてようやく一人前とされた。現在は18歳で医学部に入学し,しかもその知識は主として西洋医学に関するものである。いささかスタートが遅いとはいえ,本書を出発点として,国際的な場で通用する漢方医学を身に付けてくれる人が一人でも多く現れてくれることを希望する。
本書は,1995年に「医学生のための漢方医学セミナー」の試用教材として出版したものを,現在の状況に合わせて訂正・加筆したものである。当時の筆者のなぐり書きともいえる手書きの原稿を丁寧に本に仕上げてくださったのは医聖社の土屋伊磋雄氏であった。氏は,試行錯誤を繰り返す筆者の原稿を一つ一つチェックして形を整え,最終的に使いやすいテキストを作成してくださった。改めて御礼申し上げたい。このテキストは,その後,このセミナーで使い続けられ,参加学生たちに好評であった。筆者としては,しかしまだまだ不十分で直すところがたくさんあると考えていたが,これを見た畏友・江部洋一郎先生から,間違いは後で正せばよいから早く正式に出版して世の中に出すべきだとの助言を頂き,東洋学術出版社の山本勝司社長のご協力を得て出版の運びとなった。
このたびの出版は,第1章の「漢方医学の現況」を全面的に書き直したのを始め,いくつかの文章を変更し,あるいは図版も含めて新たに書き下ろし,サイズをA4変形判として外見も一新した。これらの作業に全面的に取り組み,筆者のわがままを丁寧に拾い,素晴らしい誌面を作り上げてくださったのは坂井由美さんである。はじめての共同作業であったが,ごく短期間の間に,特に大きな困難もなく進められたのは坂井さんのおかげである。そのご努力に対し,心より感謝申し上げる。
2008年8月1日
安井 廣迪