はじめに
十三年前、東洋学術出版社社長・山本勝曠氏に新宿の喫茶店に呼び出され、季刊誌『中医臨床』への連載依頼を受ける。
表裏ふたつのお題を頂戴する。表の顔は「初級者のレベルアップ」であり、裏の課題として「教科書中医学の打破」が与えられる。
汗をかきながら真剣に語る山本社長の顔が非常に遠くに見えたことを鮮明に記憶する。
他誌に連載をもっていたとはいえ、三十代の半ばの奴がやる仕事としてはいささか荷が重く、他に適任者がごまんといるだろうにという思いが強くある。まだまだ顔じゃない私で大丈夫なのだろうか? という心境であった。
当時、編集部にいた戴昭宇氏(現・東京有明医療大学助教授)の強い推薦もあり、引ける状況にはなく渋々承諾はする。ただ「教科書中医学の打破」という難問は、器を超えた課題と自覚するため、不安が先行する形でのスタートとなった。
当時は中医鍼灸の定着期である。導入期ではないにせよ、まだまだ中医鍼灸と他流派の比較論が花盛りで、色々な場所に出向いては言語規定の明確さや中医の論理性の高さなどを伝えなければならない。端から喧嘩を仕掛けてくる者もいる。二、三度攻撃されれば、鈍い筆者であっても相手の意図が読めてくる。
そんななかで生まれたのが「教科書中医学」という造語である。誰が言い出したかは定かではないが、理屈ばかりで腹の上で臨床をしていないという批判を端的に言い表した言葉がこの「教科書中医学」であった。
自身、教科書中医学といわれても、患者のからだに聞かない臨床などあるわけがないと思っており、どうしてそう言われるのかな? と不思議で、せいぜい論理性が高いぶん、技術ウェートが低くても成り立ちやすいというくらいの認識でしかない。これでは打破するための戦略・戦術など立てようがない。
連載途中で、定着期の常である初級レベルの者が圧倒的多数を占め、中級以上あるいは教育者が極めて少ないことに由来する一時現象であると気づく。過渡期という言葉が最も適当といえようか。人口比率に喩えれば、若者が多く、中年以降は少ないのと同じであり、時間とともに死語になるだろうと予測し、気持ちがずいぶん楽になる。
新しい学問は導入、定着、発展、継承という順で進む。近代で伝統医学の断絶がある以上、現代中医学は新しい学問として導入されることになる。個人としては入門、初級、中級、上級の道を歩む。
当時、初級を三歩出て、中級に片手が届くかどうかという時期にあるという明確な自覚を持つ。
ならば自身がやってきたことを整理し伝え、皆で中級に行きましょうという姿勢に立てば、表裏両課題が一挙に解決すると考えた。
もちろん個の力はたかが知れている。そういう意識をもった仲間を増やせば加速度が増すとも考え、七人の志を同じくする者と三旗塾を立ち上げる。
折しも立ち上げて十年の節目を迎えた今年、現編集長・井ノ上匠氏から修正を加え出版するという話しをいただく。忘れずに読み返してくださったことに感謝の意の表す次第である。
二〇一〇年十一月