●はじめに
針灸治療を行うためには,経絡の知識が必要である。経絡には十二経脈・十二経別をはじめ,奇経八脈・絡脈・経筋・皮部などが含まれる。なかでも十二経脈と奇経八脈が,実際の治療に際しては常用されている。
しかし,治療にある程度習熟すると,針灸治療を行うためには,十二経脈と奇経八脈だけでは不十分であることに気づくに違いない。身体の大部分を占めている筋肉の異常を治療するためには,経脈の及ばない領域があるからである。
『黄帝内経』に記載されている経筋の存在を,実際の臨床上で追試し確認したところ,驚いたことに,筋肉は現代解剖学でいう死んだ筋肉の切れ端ではなく,先人の述べているように,筋肉のつながりとして機能している。
『黄帝内経』でいう経筋は,現代的な表現をすれば「経筋ネットワーク」「経筋システム」と呼ぶにふさわしい大事な領域である。
本書は,この驚きを著者の臨床経験をふまえて理論的にまとめたものである。
1│哺乳動物は大部分が筋肉でできている
狩猟民族であった原始人に戻ってみたとしよう。そして,やっとの思いで鹿を捕まえたとする。ついで肉の饗宴のために,解体を始める。まず皮を全部剝ぎ取ってしまうと肉の塊が出てくる。動物は肉の塊でできているのである。次に骨格筋を取り除いてしまうと,骨と内臓,そして頭が残る。このように動物を解体してみると,その大部分は筋肉で占められていることがわかる。筋肉には,筋膜や腱・靱帯が付着し,関節周囲でしっかりと骨にくっ付いている。
西洋医学では,筋肉は1つひとつ分離した別個のものと考えている。しかし,東洋医学の経絡の考え方では,人間は生きたもの,機能しているものと考えており,筋肉は一連のつながりをもち,経脈とほぼ似た分布をして機能している存在だと考えている。その証拠に,経筋の「経」には「織もののたて糸」「すじを引くこと」などの意味がある。経筋とは一連のつながりをもった筋肉を意味する。
したがって,現代医学の筋肉生理学と東洋医学の経筋学との違いは,筋肉同士がつながって機能しているのか,別々に動いているのかの違いである。
このように,筋肉は日常生活において重要な存在であるにもかかわらず,針灸治療では十二経脈のみが重視され,筋肉学である十二経筋は今まであまり重要視されてこなかったように思う。
2│経筋は身近な存在
2000年以上前に書かれたと思われる『黄帝内経』には,すでに筋肉の走行が大まかではあるが明確に記載されている。
経筋学は,東洋医学における筋肉と関節に関する分野であり,われわれの日常生活にきわめて身近な存在である。
毎日,重い体重を支え,そのうえ重いものを持ち歩いたりするので,経筋システムにはいつもたいへんな負担がかかっている。そのため,毎日来院する患者の大部分が「首が痛い」「肩がこる」「腰が重だるい」「腕があがらない」「膝が痛い」「下肢が引きつる」などの筋肉の異常を訴える。このような症状の治療は現代医学の盲点であり,著者のこれまでの臨床経験では,経筋療法を用いることで治療の幅が広がった。
3│「経筋学」は古代の『霊枢』経筋篇を基礎に進歩してきた
身体のあらゆる動きは,筋肉の働きによってなされている。上肢や下肢・体幹などの筋肉は,骨格に付着し,それを動かすので骨格筋と呼ばれ,骨とともに姿勢の保持,移動や手作業を可能にしてくれている。特に上肢や下肢の筋肉は,関節を跨いで骨と骨をつなぎ合わせており,その収縮と伸展によって関節を動かしている。われわれが毎日歩行したり,手を使ったりできるのは筋肉がスムーズに動くからである。もしこれらに異常を来すと,肩こり・腰痛など全身のあらゆる筋肉痛や運動障害が起こる。
これらの痛みや障害は,東洋医学の立場からみると,経筋の異常によって起こる筋肉の異常反応である。古代の東洋ではすでに人体解剖が行われており,筋肉や腱・靱帯,さらにその周囲の関節について詳細に観察した記録が残されている(『素問』骨空篇,『霊枢』骨度篇など)。
『霊枢』経筋篇に,十二経筋の走行や,十二経筋が病んだときの症状,治療法が詳しく示されているが,そのほかにも『素問』『霊枢』のなかには経筋についての知識が散見される。
現代の経筋の概念は,当時よりさらに幅広いものと理解されるようになっている。経筋は,筋肉だけではなく,靱帯や筋膜,骨を除いた関節,つまり骨と骨をつないでいる組織も包含するものと認識されるようになってきた。
現代の針灸治療では,経脈学や臓腑学を重んじるあまり,身体全体を支えている筋肉や関節を含めた「経筋系統」の存在がおろそかにされてきた傾向がある。現在出版されている針灸関係の書物の大部分は,十二経脈や奇経八脈・臓腑などについて述べられている。確かに,経脈や奇経は日常の治療において大事な存在である。しかし,ある程度臨床経験を積むと,これらだけでは治せない領域があることに気づくはずである。それは経脈や奇経もまた経絡の一部分でしかないからである。先人はこの不備を補うために経筋上の治療点を「経外奇穴」として多用してきた。
経筋学は,現代医学の「筋肉学と関節学」であると考えてよいと思う。
一般には,針灸治療をするとき,どの経脈に異常があるのか,いわゆる「経脈の目」で人体を見ることが多い。しかし「経筋の目」を通して人体を観察すると,意外に新しい発見があり,また治療効果も高まると思う。
4│現代医学の筋肉解剖学の理解も必要
『素問』『霊枢』はいつ頃,誰によって書かれたものであるかは明らかでない。しかし,当時としては経験豊かな医師たちによって書かれたものであることは確かである。
十二経筋が存在するという発想は,非常に特異であり,これまでも進歩発展し,人々の健康のために役立ってきた。しかし,現代に生きるわれわれにとっては,現代医学の解剖学の知識もまた必要である。
古代の『黄帝内経』に記されている治療法と現代医学の解剖学の知識を融合させ,現代に適応した経筋学を発展させるためには,筋肉のみならず神経・骨構造・各関節部の解剖学的知識も必要である。そこで,今後説明を進めて行くうえで理解を容易にするために,できるだけ筋肉解剖所見のイラストを多用することにした。
5│経筋学には特異な発想と治療法があり,新しい治療分野が開ける可能性がある
経筋学の生理や病理理論,特に治療法には,現代医学がもっていない特異な発想と治療手段(刺針はもちろん,刺絡や火針など)がある。それだけに,現代人を驚かせるような治療効果を発揮することができる。
事実,患者は「いろいろな治療を受けたが,治らないから」と,最後に針灸治療を求めて来院することが多い。このとき,経筋療法の考え方で治療すると患者も驚くような効果を得られるときがある。
経筋学は,ユニークな理論をもった治療法であるがゆえに,現代医学もこれら経筋学の発想から新しいヒントを得ることができ,応用分野が開ける可能性があるように思えてならない。経筋学は,古くて新しい分野であるが,時代とともに経筋についての考え方は進歩発展している。
今まで「経脈学」はあっても,人が歩行し運動する「経筋学」が顧みられることがあまりなかったことは,著者には不思議でならない。
6│現代医学もその不備を補うために,経筋病について研究し始めている
現在,筋肉の異常に関しては主に現代医学の整形外科が治療を受けもっている。しかし,現代医学では,著者が毎日遭遇する肩こりや腰痛,そのほかの関節疾患を治せない。そのため,その不備を補うために「運動器疾患」についての学会が作られ,研究され始めている。
このような現状からも,経筋学はきわめて身近な存在であり,現代医学の不備を補う有効な治療手段であることがわかる。今後も研究に値する分野であると思われる。
本書の読者対象は,経筋学にはじめて接する鍼灸専門学校の学生や,卒業後間もない鍼灸師,針灸に興味をもつ医師の方々などである。できるだけわかりやすくするために現代口語を用い,イラストや写真を多く用いた。実用的でただちに臨床に役立つように心がけたつもりである。
誤りもあり,ご批判もあると思われるが,この本を読まれて「経筋学」に少しでも興味をもち,さらにこれを深めてみようと向学心を燃やしてくれる同好の士の方々の刺激になれば,これ以上のよろこびはないと思っている。