序文
胡栄先生(菅沼栄女史)が,東洋学術出版社から本書を出版されるにあたって,序文を書くようにと求められた。私と胡栄先生は,親と子ほどの年令差があるが,胡先生は私が中医学を学んだ教師(日本では恩師,中国では老師と呼ぶ)であり,とても序文を書くような立場ではないが,10年ばかりの長い交際であり,私の了解している先生の人となりや学識について紹介し,この書を読まれる方の参考にしていただければ幸甚と思い,拙文を草して執筆をお受けした次第である。
胡栄先生は北京中医薬大学を優秀な成績で卒業された才媛である。附属の東直門医院で中医内科の臨床を研修中に,同じ学院に留学し卒業された菅沼伸先生と結婚され日本に来られることになったとき,中医学院の幹部や教授連から渡日を延期してもっと才能を伸ばしてはどうかと,惜しまれ,引きとめられたが,夫君の菅沼氏の引力のほうが強かったというエピソードも伝わっている。
1980年,故間中喜雄先生を会長とする医師東洋医学研究会が,北京中医学院から故任応秋教授をはじめ有名な教授達を招いて中医学セミナーを開催したとき,菅沼伸先生は音吐朗朗とした名通訳で,私たちの聴講と中医学の学習をたすけられた功は大であった。
その後,日本の医師,薬剤師,針灸師などの間に中医学に対する関心が高まり,胡栄先生を講師とするイスクラ産業の薬剤師向けに企画した中医学の基礎から臨床までの定期的な講習会が新宿で開かれ,私も参加して聴講した。胡先生には失礼ながら,来日後まだ日が浅く,日本語に少したどたどしさがあり,スライドもあまり綺麗とはいえなかった。だがしかし,先生の講義には熱意と迫力が感じられ,言葉やスライドの物足りなさを補なって受講者を惹きつけるものがあったと思われた。
さらにその後,信濃町の東医健保会館で,故人になられた木下繁太郎先生や中村実郎先生らが世話人で運営されていた東京漢方臨床研究会(株式会社ツムラ後援)で,私も世話人に加えられ,聴講者の減少に対する対策について意見を求められ,中医の弁証論治をテーマにして,張瓏英先生にも講義をお願いしたこともあった。しかし当時の聴講者から中医学基礎理論につかわれる用語は理解しにくいという意見もあり,しばらく胡栄先生の系統的講義をお願いしようということになり,スライドを新しくしたり,講義内容の要点がプリントして配布されるようになった。やがて聴講者が増加して,毎回50名以上になり,会場から溢れるほどの盛況になった。
豊島区でも,永谷義文先生らを中心とする中医学の勉強会を担当されていたこともあり,先生の日本語は急速な進歩を遂げられ,ときには早口で聴きとりにくいことさえあるほどになった。先生は2時間の講義のために,自宅で5~6時間以上をかけて準備され,その内容をノートにびっしり書き止めて持参されるという。先生の真面目な責任感と受講者の臨床に役立つ,わかりやすい内容にしようとする熱意が,講義をいきいきとした雰囲気にし,先生の人となりと相待って,講座を盛況にみちびいたと思われる。他の講習会に見られないのは,定刻の少し前から集まり始める受講者が最前列から着席し,開会の頃には最も後ろの席まで埋まるという状態で,受講者の熱心さを物語っている。
本書にも紹介されているように, 先生は日本に来られてから,イスクラ関係の薬局で,薬剤師さん達のいろいろな相談に応じるうちに,日本の漢方の使いかたや,患者さんの特徴などを理解されるようになった。先生の体験は講義の中でもいかされ,中医学の生薬や漢方ばかりでなく,使えるようなエキス剤があれば,それを紹介するというように,日本の医師や薬剤師が日常の臨床で利用できるように配慮されている。本書の読者は随所にこの事実を理解されるだろうと思う。
1980年に任応秋教授の陰陽五行学選についての講義を聴いたとき,カルチュア・ショックを感じたのは,私一人だけではなかったであろう。それから15年を経て,中医学の基礎理論,弁証論治,経絡学説,中薬学,方剤学などについて,未熟ながらも多少は理解し,日常の婦人科,とくに不妊患者の診察にかなり役立つようになっているように思う。
長期間にわたって胡栄先生から受けた薫陶が,今後の私の中西医結合の臨床に大きな援助になることを確信し,この機会に心から感謝申し上げ,擱筆する。
産婦人科菅井クリニック
菅 井 正 朝
1996年4月1日
菅 沼 栄
1996年4月2日