▼書籍のご案内-後書き

現代語訳 黄帝内経素問 上・中・下巻

監訳者あとがき

 古典の翻訳は時間がかかる。ひとつの古典をめぐって、異なる多くの時代に積み上げられた解釈の山を媒介とすることなしには、たったひとつの言葉すらもその意味を明らかにできないからだ。しかも、それらの解釈が、その古典が書かれた時代の意味をそのまま伝えている保証はどこにもない。翻訳者は、古典の原文と、そうした蓋然性しか有していない解釈の山と、同時代のさまざまな資料とを見較べながら、これも蓋然的なものにすぎない自分の解釈を選び取ってゆかねばならない。
 そうした作業の末に著わされた『黄帝内経素問訳釈』という書を、日本語に重訳しようとすれば、重訳者もまたそのプロセスを踏みしめ直してみる必要がある。とりわけ本書のように、注釈の量をある程度抑制してコンパクトにまとめた書物の場合、ある原文の一節がどうしてそのように訳されているのか、そこに意味されているものは何かといったことが分からないと、意味を取り違えて重訳しかねない。また本書は、この種の書物としては比較的早期に成書したため、試訳的な部分や誤訳と思える部分もないわけではないから、それらについても、紙幅が許す範囲で重訳者が改訳していかねばならない。やっていけば際限なく増え続けるばかりのこうした作業を、量と時間の制約の中で果たしていくことが、どれ程フラストレーションを呼ぶかは、多分それに直接携わったことのある人以外には誰も分からないだろう。
 原訳を日本古文の書き下し文にする作業も、こうした原書の性格と、現代中国語風に句読された原文にしばられながら行なわざるをえないから、かなり苦渋に満ちたものとなった。また、複数の重訳者による、それぞれ個性的でみごとな書き下しのスタイルと翻訳についても、本来監訳者が統一することなど原理的に不可能としかいいようがないのだが、失礼を顧みず統一させていただかざるをえなかった。訳者諸氏独自の色あいをどれ程保つことができたか、心許ない限りだが、今となってはただ御寛恕を願うばかりである。紙幅を広げぬために、訳注は最小限に絞り、訳文も敬語などを削ってきりつめた形にしたのだが、それでも上中下三本に分かたねばならぬ量になってしまったことも含め、訳業の難しさを思わずにはいられない。
 監訳者としてこの仕事に関わり始めたのは、もう六年も前のことだ。大幅な遅滞の原因は、全て私の、多忙にかまけた怠慢さにある。ただ、私事に渉らせていただけば、訳業を始めて数年後に、腎を患って入院せざるをえなかったことが、いつまでも続く痛みとして尾を曳いたことは否みようがない。そうした日々の焦りが、訳業の上に不測の影を落としていないとよいのだが、もともと力量に乏しい私のこと、恐らくさまざまな誤りを犯していることだろう。
 どんな古典の翻訳も、多かれ少なかれさまざまな妥協のアマルガムの形でしか、世に出てくることができない。古典が背負った宿命ともいえるこの事実は、以上述べたような事情から、この日本語訳についてもあてはまる。だが、そうした妥協にもかかわらず、この訳には生まれねばならぬ必然性があったことも、また確かなことである。中国伝統医学の教典として伝わった書物の内で最も古いものに属する本書を、誰もが手に取って読める程度のボリュームで、しかも古典読解に伴って原文について考えていく上の資料も付した形で、一刻も早く提供する必要があったのだ。
 周知のように、伝統医学はその価値を評価され、広まっているかにみえて、実はその薬箱と理論抜きのマニュアルだけを盗まれ、近代医学のある部分を補完するものとしてのみ位置づけられようとしている。薬箱も近代科学の方法で再評価され、その粗い網目から抜け落ちた要素は、あたかも無かったかのように扱われがちである。インスタント漢方医の盛行が、この情況を更に歪めている。
 この情況を招いた理由のひとつに、肝腎の伝統医学理論の原典である『素問』・『霊枢』のスタンダードな翻訳が手に入りにくいとい現実があったことは否めない。誰もが『素問』・『霊枢』について語ったが、その多くの人はそれらの書を古典原文の形で通読したことがなかったのだ。原典はおろか、明清の医学と民国から先の西欧医学との不思議なアマルガムとして成立した現代中医学の、そのまたマニュアル書すら読まずに、伝統医学を語り、用いるのはやはり相当危ういことだったはずなのだが、事実はそんな雰囲気の中から、「漢方の現代化」といったものは起こっている。
 伝統医学の理論や、本来の方法論自体には、近代医学の補完どころか、未来の医学のモデルになるような要素がたくさん含まれている。原典の読解から、それらを再評価し、未来の医学につなげていく作業は、私達と、これから生まれてくる未来の伝統医学関係者の責務である。現代中医学にまなざしを向けながら、常に原典とその理論に戻ることをモットーとされている篤志の書肆、東洋学術出版社の山本勝曠氏の熱意と、それを支持された多くの伝統医学家の情熱に励まされながら誕生した本訳書が、そうした未来の医学を生むための捨て石のひとつになることを祈りつつ、あとがきの筆を擱くことにしたい。