『中医鍼灸 鍼灸処方学』(李伝岐・李宛亮著,兵頭明監訳)を読んで
三旗塾 金子 朝彦
かれこれ二十数年前だと記憶するが,李世珍先生,李伝岐先生が全国を行脚されたことがある。各地の中医鍼灸系研究会の招きに応じて講習会を開くためである。
当時,『常用兪穴臨床発揮』(人民衛生出版社)を訳しながら臨床に応用することを常としていた身としては,早々に東京で開かれた講習会に申し込む。
質問タイムの折,「経絡上で血の不足と津液の停滞は同時に起こることがありますか?」とお尋ねしたところ,詳細は省くが「同時に存在しない」というお答えをいただく。思えばこれが李世珍先生との最初で最後の会話となる。
以来,この命題は私の中では心深くに沈む澱のようになってゆく。霧が晴れたかと思うとすぐに視界を閉ざす永遠の命題のようでもある。その意味では私淑した臨床家として「李世珍先生」の名前は私の心に刻まれることとなった。
本書はその李世珍先生のご子息伝岐先生の手による作である。李家5代にわたる鍼灸術の集大成という位置づけとお見受けする。
李家家伝の鍼灸術の特徴はひとえに少数穴主義にあると思う。本書では各処方(配穴)の基本はほぼ2穴に集約されている。臨床家ならわかると思うが,2 穴に集約する作業はそうたやすいものではない。
1穴ごとの効能(穴性)は幾通りかあるのが通常だろう。詳しくは『常用兪穴臨床発揮』(日本語版『
中国鍼灸 臨床経穴学』)を参照していただければと思うが,李家ではこれに補法,瀉法,運鍼,透天涼(清法),焼山火(温法)あるいは瀉した後に補法などの手技を駆使しながら,いくつかの効能の中から特定の効能を導き出すことを前提に成立している感がある。ここに「効能は手技によって導かれる」という強い信念のようなものを感じない道理はない。それゆえ2穴の組み合わせで一つの病理の対応力を強化させる場合もあるだろうが,それ以上にたとえば補瀉なら「補・補」「補・瀉」「瀉・補」「瀉・瀉」の4通りの組み合わせが成り立ち,4方向の病理に対応できる構造となっている。
これが既存の中医鍼灸書なら各証に対して適応する効能を持つ経穴を複数あげるか,少し練ったものでも類似の効能を持つものの中から主穴,対穴(準主穴),兪穴,募穴,近位穴などをセレクトしたものが大半を占める。この違いゆえに引き込まれたわけである。
繰り返しになるが1穴の効能の中からハイグレードな手技を用いて,ある特定の効能のみを浮かび上がらせ,それを組み合わせて多種の病理に対応させる点こそが李家鍼灸術の真骨頂であり,本書の最大の特徴となっているのである。
私のように一人の患者に7~10穴ほど使い,そのうち1,2穴は甘く刺すというか意味づけの薄い刺鍼になりがちな者からすれば真摯な臨床態度というしかない。
次に本書の特徴を探ってみよう。平たくいうと微に入り細に入る点ではなかろうか。
各論を見ると処方名(配穴名)が方剤名表記となっている。帰脾方,都気方,四逆方,右帰方,導赤方,補陽環五方などなど。適宣する処方がないときには効能もしくは病理で代用しているようだ。清痞塊方,健脾滲湿方あるいは痰湿方などである。この方剤と比較検討しながら継承発展させた点も特徴の一つといえるだろう。補陽還五方を例にざっくりと見てみよう。
起源:これは一般的な起源ではなく,李家で補陽還五方と名付けるまでの経緯を示す。
経穴組成:実際は対穴(穴対ともいう)であるが,構成上は処方に相当するだろう。合谷(補),三陰交(瀉)の2穴のみである。
操作方法:実に詳細な記載である。刺鍼の順序,深度,置鍼時間,その間の手技と続き,治療間隔(ここでは隔日から中2日で治療する)まである。ここが他書と比べ実に微に入り細に入るから恐れ入る。特に刺鍼の順序はいつも悩みどころであるから道しるべとなろう。
効能効用:補気活血による去瘀とある。だから補陽環五方なのだろう。補陽環五方を2穴のみで表現している点からも,その技術の高さを窺い知ることができよう。
主治範囲:心脳疾患,経脈疾患,瘀血疾患,外傷性疾患とあり,治療範囲に具体的な方向性を示す。
方証解説:経穴の効能と病因病機に分かれる。経穴の効能は処方解説に当たる。先の操作方法を交えながら,合谷,三陰交双方を取穴した意義について丁寧な説明がなされている。病因病機は気血の関係論から入り,血瘀が発症する経緯についての詳細な説明がなされ,その後に血瘀の存する位置ごと(血瘀が脳絡に阻滞した病証など)の説明と続く。
主治病証:適応疾患に相当する。中風,肢体麻木,肢体疼痛,外傷性身体疼痛,脳外傷,腹部積塊,三叉神経痛,心悸,狭心症,狭心痛,仮性球麻痺,肌膚甲錯の記載がある。
臨床応用:上記主治病証ごとの具体的な症状を記載する。こちらも必見である。この項で初めて加味方が登場する。たとえば中風の項では「心臓の拍動が緩やか過ぎる者には神門(補)を加える。痙性麻痺の者には本方に太衝(瀉)を加え平肝息風をはかる。あるいは,本方と患部の関連する経穴への瀉法(少瀉・長時間の置鍼)による緩解筋脈の法とを交互に治療するとよい」とある。時に類証鑑別的な下りもある。
症例:臨床例が載る。補陽環五方では外傷性の脊背部痛1例と中風2例,それに心悸の4例が載る。
処方比較:八珍方との比較などが載る。八珍方もまた合谷,三陰交の組み合わせで成り立つ。違いは三陰交を補瀉のみである。そのほか行気活血方,益気補腎方などが記載される。この2方はそれぞれ三陰交(瀉),合谷(補)が重なるので比較対象となる。
注意事項:注意事項とあるが,著者の見解,思いを書き綴っている。
その他:上記の注意事項と重なる点も散見するが,おもに本方の使いどころ,禁忌などを詳細に書き記す。
歌括:ここまでをわずかな行数で総括する。
ざっくりと補陽環五方を順に追ってみたが,微に入り細に入るの意味がおわかりいただけたと思う。このような平,明,微細の書籍は仲間内での研究会などに似合っている。一語一句に感じ入ったり,解釈を機にディスカッションできたりするので楽しさが倍増する。ただ処方のみをいただくという姿勢では,背後にある思想や理論に欠け深みなきものになるか,道具が一つ増えただけの便利屋さんで終わるだろう。第一,10年かけて邦訳を完成させた監訳者である兵頭明先生に申し開きができない。
最後に序文を贈られた張兼維先生の言葉の中から一文を紹介する。「鍼灸学で最も重要視されるのは玄学の概念である「気」であり,鍼灸学の基礎的構造もまた,科学では実証できない経絡学である。気―経絡―経穴という構造は,典型的な東方の「象」の体系であり……鍼灸学は中医学の巨大体系の中で最大級の支流であり,東方の玄学の特徴を有しながら,鍼灸独自の特色も持ち合わせている」。
「鍼灸術を以て気を揺り動かす」。これにフォーカスして一点突破全面展開したものが李家五代のそれであろう。支流とはいえわれわれの道のりは長い。多様な路もあろうかと思う。本書は旅路に潤いを与えてくれる良書である。その後にわが道を突き進めばどうだろうか。
『中医臨床』通巻167号(Vol.42-No.4)より転載